占星術師のTomomi(@tomomi_333489)です♡
本日の記事は「年齢域で見るコペルニクス」について書いていきます。
コペルニクスのサビアンシンボル
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[blogcard url=”https://astorologylights.com/%e3%82%b5%e3%83%93%e3%82%a2%e3%83%b3%e3%82%b7%e3%83%b3%e3%83%9c%e3%83%ab%e3%81%a8%e3%81%af%ef%bc%9f%e5%8f%82%e8%80%83%e6%9b%b8%e7%b1%8d%e3%82%82%e3%81%94%e7%b4%b9%e4%bb%8b%ef%bc%81/”]年齢域とは
[blogcard url=”https://astorologylights.com/%e8%a5%bf%e6%b4%8b%e5%8d%a0%e6%98%9f%e8%a1%93%e3%83%bb%e5%b9%b4%e9%bd%a2%e5%9f%9f%e3%81%a8%e3%81%af%ef%bc%9f/”]コペルニクスの生涯・年齢域の追加
ニコラウス・コペルニクスは1473年2月19日・ポーランドで生まれたカトリック司祭・天文学者・医者・占星術師・知事です。
水星期(8歳~15歳) コペルニクス10歳前後
幼少期に母親を亡くし、10歳の時には銅を売っていた父親が亡くなります。
その後のコペルニクスは母方の叔父に引き取られます。
”ルーカス(叔父)は当時教会の律修司祭(カノン)であり、後に王領プロイセンのヴァルミア司教となった。”/ニコラウス・コペルニクス – Wikipedia
とWikipediaに書いてありますから、叔父の職業は司祭であることがわかります。
叔父はコペルニクスには将来、司祭になってほしいと願っています。
金星期(16歳~25歳)
1491年・クラクフ大学(ポーランド最古の大学・現ヤギェウォ大学)に入学し、自由七科を学びます。この自由七科とは「文法学・修辞学・論理学・算術・幾何学・天文学・音楽」を指し、特に天文学では史上初めて月の精密な軌道計算を行い、その当時定説とされていた「天動説」に懐疑的な見解を持っていたアルベルト・ブルゼフスキ教授によってはじめて天文学に触れます。
大学では天文学への興味の他に化学への興味もあったようです。
この時、コペルニクスは18歳。
1495年・学位を取らずに学業を終え、叔父の計らいによって律修司祭の職に就き、約1年ほどバルト海沿岸のフロムボルクで過ごします。
この時、コペルニクスは22歳。
1496年・イタリアのボローニャ大学に留学し、法律(カノン法)について学びます。
ボローニャ大学はヨーロッパ最古の総合大学の1つです。
法律について学んでいる間に、天文学者であるドメーニコ・フェッラーラと出会い、弟子入りします。
この時、コペルニクスは23歳。
太陽期(26歳~35歳)
1500年・ボローニャ大学での学業を終え、ローマを見物をしたのちに一旦フロムボルクに戻り、ヴァルミアの聖堂参事会に許可を取って1501年に再びイタリアに留学します。
この時、コペルニクスは27歳。
1501年・パドヴァ大学に留学し、ここでは医学を学びます。パドヴァ大学はイタリアで2番目に古い大学です。
当時医療に必須とされていた占星術もこの時に学んでいます。
パドヴァでは2年間学びます。
1503年・フェラーラ大学でカノン法の博士号を取ったのちに叔父の家に戻り、再び律修司祭の職に就きます。
その後、コペルニクスはヴァルミア地方(叔父)およびその近隣から出ることはなかったそうです。
戻ってからは叔父付きの補佐となり、聖職者であり、医師として忙しい日々を過ごしながら、趣味の天体観測を続け、自らの考えをゆっくりとまとめていきます。
火星期(36歳~45歳)
それまで主流であった「天動説(地球中心)」への疑問を天体観測によって裏付けをし、本格的な「地動説(太陽中心)」の着想を得たのは1508年~1510年頃と推定されていますが、1508年だとコペルニクスが35歳の時になります。
(占星術の年齢期に当てはめると火星期・彼の火星は水瓶座にあり、傷と癒しを表すキロンと重なります)
本格的な着想を得た時期が35歳頃ということで、太陽期に人生の目的を見つけて「これだ!」と思うものを取り組み始めたのが36歳頃・火星期ということになります。
1509年・ギリシア語からラテン語に翻訳した手紙集を出版。
同年、「コメンタリオルス」という今でいうところの同人誌を出版し、この時初めて「地動説」を公にします。
しかし、この出版は個人的なものであり、数学者の友人数人に配っただけで一般にはほとんど知られることは無かったそうです。
コペルニクス36歳
この時コペルニクスは36歳。火星期に入った時です。
これまでとは違う流れ(水瓶座)を起こしてみたくなったのでしょう。(火星)
しかし、個人的な出版で仲間に配るというのは水瓶座っぽいですね。
1517年・「貨幣鋳造の方法」出版
コペルニクス44歳
この時、質の悪い貨幣が出回っていることに気付き、経済を活性化させるためには貨幣の質を安定させる必要があると考え、国王が貨幣の品質を保証するように提案するなどの論文をまとめた本です。
社会システムの欠陥を見抜き、これまで続いた部分に変化をもたらすことも水瓶座っぽいですね☺
土星期(55歳~70歳)
1529年・この頃から「地動説」についての論考をまとめ始め、加筆修正を何度も行うが、出版するつもりはなかったようです。しかし、周囲の働きかけによって出版の方向へ進みます。
コペルニクス56歳
1543年・「天球の回転について」/天球の回転について – Wikipedia
この本のWikipediaページを見てみると全6巻となっていることから、コペルニクスが生涯をかけて取り組んだ情熱を感じます。
コペルニクス70歳
1543年5月24日にコペルニクスは亡くなるのですが、校正刷りが仕上がったのはコペルニクスが亡くなる当日のこと。
コペルニクスにとって出版することよりも、宗教的に信じられていること(主流)よりも自らの力で天体観測に基づいた結論を発見できたことが何よりも喜びとなったことでしょう。
土星期の年齢域は漠然としていて「どこまで(何歳まで)」というのは厳密には分かりませんが、コペルニクスの場合はちょうど70歳で亡くなっています。
ちょうど土星期に入ったころから自分の考えをまとめる気になり、論文の加筆修正を行っているのはまだある「心の中にある葛藤」(太陽・冥王星・土星Tスクエア)によるものではないでしょうか。
Tスクエアの向かう場所は射手座4ハウス。
葛藤の中で自分をそうさせる(行動させる)”何かの存在に気付くこと”(4ハウス=人生の終盤・ルーツ・意識の根底)がコペルニクスの人生にとって重要で、これまでに蓄えた高度な知識・情報や自分の目指す信念体系(射手座)をまとることが意識の根底にはあったのだと思います。
双子座の土星は蠍座の海王星と150度を取っています。
150度は合わないものをうまく使えるようにする動き。
妥協と改善とよく言い表されるように、無意識の内から沸き起こる自分を動かす力の存在に気付き、形にしていくことで自分の中にある矛盾や葛藤をうまく表現したのだと思います。
コペルニクスが亡くなった時のホロスコープを見てみると出生図の双子座土星に対して、亡くなった日は双子座に火星・金星が双子座土星とちょうど重なり、出生図の蠍座海王星に対して、亡くなった日は蠍座に土星があり蠍座海王星と重なります。
以前、Twitterで見かけた内容で「亡くなった日はその人が目指したかった姿」というのがありました。
そのことを考えるとコペルニクスが亡くなった日は太陽が双子座に入って間もない頃です。
ちょうど出生図のMCを過ぎて土星に近づこうとしている時でした。
もっといろいろな世界を見たい、知りたい、学びたい。
そのような想いだったのでしょうか。
この記事はここまで
今回の記事はここまでです。
しばらくコペルニクスについての記事を書いてきましたが、今回の記事で一旦終了です。
次は誰の記事を書こうか・・わくわくしています。
お楽しみに✨
ここまでお読みくださりありがとうございました☺
Tomomi